「自己組織化していない」はあり得るのか?

~パースペクティブの問題(石川英明)

「自己組織化」について、色々と考え、実践してきたことを言葉にしてみたいと思います。

まず、自己組織化という言葉に出会ったのは2006年頃で「自己組織化する宇宙」という本を紹介いただいて、それを読んだことが始まりでした。高校の頃からエントロピーという概念はなんとなく触れていて、その頃の記憶が呼び起された感覚もありました。

最初に考えたいのは「自己組織化していない」という状態はあるのか?あるとしたら、どういう状態なのか?」ということです。

例えば、バッタが大量発生して、食料となる稲を食べ尽くします。そうすると、食料がなくなるので、バッタも大量死します。このような現象は、自己組織化しているのか、していないのか。

なんとなく予想ですが、このような現象について、自己組織化について少しでも触れたことのある方は「自己組織化の現象の一つだ」というように思うのではないでしょうか。ちなみに、私もこの現象を「自己組織化のプロセスだ」というように解釈する人間の一人です。

自然界で起こるような現象については、「こういうことが自己組織化によって起こっている」というように解釈することが多いのではないかなと思います。

では、人間が意図的に行うこと、あえて言えば「人工的な営み」についてはどうでしょうか。

都心が集中開発されて、大気汚染が起きたり、河川の汚染が起きたりすることは「自己組織化している」と解釈するでしょうか?

独裁国家が暴政を敷き、弾圧され続けた国民が立ち上がって革命がおこる、という現象はどうでしょうか?これは、自己組織化なのか、自己組織化ではないのか。

先に私見を言ってしまうと、私はこのどちらも「自己組織化のプロセス」だと思っています。究極的には、この世で起こっていることは全て自己組織化のプロセスの一部である、と思っていることを白状します。

独裁国家が暴政を敷いて国民を弾圧し続けている、という状態は、バッタが大量発生して稲を食い尽くしている、ということと、本質的に何ら変わりがないと思うからです。 学校で習った物理の法則の一つに、作用/反作用の法則がありますが、押せば押し返されるのが物の道理であって、まさに物理学なのだと思いますが、それを仏教的に言えば、因果応報だということになるでしょう。 暴政という作用をすれば、革命という反作用が起こる。こういうことはまさに自己組織化のプロセスのことのように私は考えています。

しかし「独裁国家が暴政を敷いていて、国民が弾圧されている」という状態を切り取ると、おそらく「自己組織化できていない」「抑圧が生じている」というような解釈をすることも多いのではないかなと思います。 国家レベルの話になるとちょっと身近さに欠けますが、これが会社のことだとぐっと親近感が出てくるかもしれません。

社長が威圧的で強権的な命令を発動している、といったことがあった場合に「あの会社は自己組織化している会社だ」というようには、おそらく多くの人が解釈しないのではないかと思います。 社員は、社長の顔色をうかがう必要があり、自らの主体性や創造性を発揮することが出来ていない。そのような状態のときに「自己組織化している会社とは言えない」という判断になることが多いのではないかなと思います。

しかし、時間軸を少し長くすると、この会社には、社員が大量に退職して事業を回せなくなるという現象が少し先の未来に待っているかもしれません。 だとすると「威圧的に接する」も「顔色を伺いながら接する」も、自己組織化のプロセスの一部である、と言ってもいいのではないかと私は思うわけです。みなさんはどう思うでしょうか?

■「自己組織化している組織」の要素とは

とは言え、「独裁国家が暴政を敷いていて、国民が弾圧されている」とか「社長が威圧的で、社員は顔色を伺いながらしか仕事ができない」といった状態は、おそらく「自己組織化している会社とは言えない」とか、言い方を変えたときには「健全な組織状態とは言えない」というように感じることが多いのも、また一つの事実かと思います。

そうなると、現実的に「自己組織化している組織」をつくる、というようなことを考えるときには、一つの要素があることが分かります。

それは、1人(少数)の人間の意向で、99人(多数)が振り回されたり、抑圧されたりしている状態を(狭い意味では)自己組織化しているとは呼ばない、ということです。 逆に、組織の構成員100人の意志が、それぞれ生かされているというような状態を感じたときに「自己組織化している組織」だというように、感じるのではないでしょうか。

つまり、自己組織化とは「フラットさ」の別名のようになっているところがあるように思います。

さて。 例えば、中学校の40名のクラスで、40名それぞれが、それぞれにやりたいことをやっているクラスは「自己組織化しているクラス」と呼ばれるでしょうか? 帰宅部の生徒、バスケ部の生徒、塾通いの生徒、40人が40通り、それぞれ自分の世界を生きています。そういう時に「ああ、あのクラスは自己組織化しているなぁ」と思うでしょうか。 おそらくですが、これまた「それは、自己組織化しているということではない」と感じる方が多いのではないか、と想像します。

「それは単にバラバラなだけだよ」と。 そうなのです。「フラットに一人一人の意思が尊重されているが、単にバラバラなだけでもない」というような、なんとも絶妙な塩梅のモノが、おそらく私たちの思う「自己組織化」なるものではないでしょうか。

個々人の意志は抑圧されることはないが、バラバラなのではなく共同体的な何かがある。共同体的な繋がり感はあるが、全体主義的な同調圧力があるわけでもない。そのようななんとも微妙な状態というのが、自己組織化なるものの正体に近づく一つのヒントのように思います。

 

*この記事を書いた人*

石川 英明(いしかわ ひであき)                               株式会社コーデュケーション 代表取締役 。組織規模が10名~100名程度の企業に向けた総合的な組織コンサルティング。ビジョン策定、ビジョン共有支援、人事評価制度策定、管理職育成、全社チームワーク向上など、組織力向上に必要な施策を提供している。

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